海であった江ノ口
『南路志』に「当国大津は今の大津村也。中津は今の愛宕山の西也。小津は今の尾戸也」とある通り昔は浦戸湾は広く湾入して、小津は湾内の港であったことが知られる。その海潮の浸す所が歳月とともに、海水が後退し陸地となった地域である。
江ノ口という名前について
江ノ口という地名が最初に見えるのは、寛文4年(1664年)3月の『土佐国知行高村数之帳』に、江ノ口小高坂合せて、2728石5升6合とあるのが見える。
江ノ口村という村名は山内氏時代になってつけられたらしい。村名の由来を宝永年間(1704年〜1711年)『土佐州郡志』は「諸細流合升江水処故江ノ口」と説明し、「西は小高坂村、北は久万川を限り、東西四十町(約4.3q)北十二町(約1.3q)で村域はすべて平地なり」と記述している。
江ノ口村から江ノ口町へ
明治22年の町村制施行の時、比島村及び大川筋を合併して一村となった江ノ口村は、明治34年5月に江ノ口町に改められ戸数645戸、3714人とある。寛保の頃(1740年)から3倍に膨張している。その後、大正6年に江ノ口町は高知市に合併された。
小津神社について
小津という地名は江ノ口より200年も早くからあったようである。小津神社は昔は尾戸にあって旧の江ノ口村及び大川筋市中廿代町の産土神である。寛文11年(1671年)9月15日に現在の幸町に移転した。鰐口に「大高坂郷小津村小津宮手時文明6年甲牛」とあり古い神社であることが知られる。以上記述する所から、小津は江ノ口村のまだ名の無い時から江ノ口内の西南に位置したことは明白であると云える。むしろ江ノ口村は小津から始まったと云うべきであろう。
以上、江ノ口の歴史についての記事は、元県議会議員、浜川金兵衛氏による江ノ口社会福祉会報27号(昭和59年1月1日発行)に掲載された記事を参考にしたものです。
国家神道時代(戦前)から小津神社に伝わる氏子区域境界図。
地図をクリックで拡大します
この氏子区域図は、昭和48年10月25日当時の古老、小津神社責任役員でもある常石重積氏(明治31年生)浜田定資氏(明治38年生)の指示のもと先代宮司中地丈夫(昭和10年生)が氏子区域境界を廻り確認した地図である。
なお、昭和49年9月19日にも常石重積氏(明治31年生)と岡林馨氏(大正5年生)、中地丈夫で同じ境界を廻り確認している。
小津神社の氏子区域
北の限りは久万川まで
南の限りは江ノ口川まで
東の限りは国分川まで
西の限りは小津町、城北町・宝町の半分まで
但し、比島周辺の一部は四社熊野神社の氏子区域。
愛宕町4丁目と丸の内2丁目・廿代町・はりまや町3丁目の一部は小津神社の氏子区域となります。
氏子区域は伝統的なもので、時代と共に変化するものではありません。
廿代町の一部
パレスホテルの吉村氏等から戦前から小津神社の神輿が渡御していたことが証言されている。また、大正11年に氏子崇敬者により奉納された境内外周の玉垣には「廿代橋通組合」「廿代町東中組合」の名も見える。さらには文政元年(1818年)の当社再建の棟札に廿代町庄屋久左衛門他13名の廿代町氏子の名前が残っていることから、藩政期より廿代町が氏子区域であることが確認できる。
はりまや町3丁目の一部
小津神社御旅所神明宮が鎮座しています。また昭和26年の寄付金の奉名帳が当社に残っており、伝統的に氏子区域であったと言える。
愛宕町4丁目
昭和28年頃まで久万川は現在の様な東西に直線状に延びる河川の形をしていなかった。久万川の北、愛宕町4丁目は現在も小津神社の氏子区域である。
丸の内2丁目
大正10年の高知市街図を見ると、江ノ口川が現在の様に直線状になっていない入り組んだ形になっている事が確認できる。丸の内2丁目の一部も昔からの小津神社の氏子区域であると伝わっている。
四社熊野神社(比島鎮座)
神社明細帳(明治期の神社資料)によると、人が住み始めて40年余りの間は氏神様は無かった。神社が無いため比島村の西半分の村民は小津神社の氏子となった。正保年間(1647年頃)に四社神社が創建された。東半分の村民は四社神社の氏子となったが、西半分の村民は小津神社の氏子のままであった。その後、熊野神社が創建されるも、創建年月日は不明。小津神社は江戸時代に熊野権現社と称していた頃もあり、熊野神社は小津神社の御分霊を頂いた別社との説もあるが、創建時の棟札が見つからず証拠になるものが無いため小津神社の別社との断定はできず、その判断は後世の人に委ねると書かれている。小津神社とは歴史的縁のある神社である。比島村周辺の氏神神社。
卸団地
紺屋町(はりまや町1丁目)に問屋街があったが、昭和44年頃卸団地ができ、多くの問屋業者が卸団地に移転した。昭和40年代から卸団地にも小津神社のお神輿が巡行している。昔からの小津神社の氏子区域。